のんびり屋チャーリイの映画ブログ

映画を観て思ったことを書いています。

その12日間は、彼の一生だった/『100歳の少年と12通の手紙』感想

  『100歳の少年と12通の手紙』の主人公は白血病の少年だ。

 この情報だけだと、とても悲しい物語を連想してしまうが、実際はほとんどコメディカルに進行していくし、その中で心も温まっていく穏やかで観やすい映画だと思う。

 

 主人公のオスカーは、ある日、入院先の病院に営業でやってきた宅配ピザ屋の女性ローズと出会い、彼女のストレートな物言いに惹かれる。

 オスカーは日頃から、自分を叱ることもできず息子を失うであろう悲しみから明るく接することもできない両親に苛立っていた。
 そして病院にいる他の大人たちも、オスカーに待ち受ける運命を知っているがために、叱りもできず笑いもしなかった。
 そんなオスカーにとって、ローズは裏表がなく、信頼して話せる相手だった。
 
 その出会い以来、オスカーはローズ以外に心の内を話さないようになる。
 困った担当医デュッセドルフは、ローズに連絡し、ピザを配達する代わりに毎日オスカーと少し話すことを提案する。
 初めは渋々引き受けるローズだったが、オスカーと仲良くなるにつれて、情が生まれていく。
 
 ローズは自分の故郷では年末の12日の天気を見ることで、翌年の毎月の天気を占う風習があることをオスカーに伝える。
 そして、これからの1日を10年として捉えて、1日1回神様に手紙を書くことを勧める。
 12日間に、12通の手紙。
 オスカーとローズは12日間を共に過ごしていく。
 
 
 
 数世紀前の西洋社会において、子どもという概念は「不完全な大人」と考えられていたが、現代においてもその名残はあるように思う。
 しかし、ひとつだけ確かに思うことは、「子どもには子どもの世界がある」ということだ。
 
 1日を10年として捉えるなんて、大人からすれば馬鹿げているかもしれない。
 しかし、キスしただけで大人になった気分になるような子どもの世界では、それは自然なことなのだろう。ローズはそういう目線をきちんと持っていた。
 そして大人ですらも、とりわけ大病を患った時には、そのような考え方を素敵だと思うようになるのではないだろうか。
 子どもは「不完全な大人」ではなく、「子どもは子ども」なのだと思う。
 
 終わりを前にしてはじまる物語がある。
 それは理屈では測れない、魂の救いを求める物語だ。
 ローズのおかげで、オスカーは後悔のない一生を過ごせた。
 そしてローズもまた、オスカーと触れ合うことで、失うことを恐れるがあまりに人を愛せない彼女の魂が癒されていく。
 2人の出会いは、お互いが残りの人生を生きるために、確かにかけがえのないものだったのだろう。

きっと誰にでもある人生の1ページ『レディ・バード』

 
 『レディ・バード』には、自分が生まれ育った環境のしがらみから未だ抜け出せず、しかし自我は力強く芽生えているという「高校生以上大学生未満」な一人の女性の姿が1時間30分の尺を使って広々と描かれている。
 それは、きっと誰の人生にもあった青春の1ページなのだろう。
 
 
 主人公であるクリスティン・マクファーソンは、カトリック系の高校に通う学生であり、大学進学を考える時期にあった。
 彼女は自分が生まれ育ったサクラメントや自分の家をあまり良く思えていないようで、それに対する否定的な見方や彼女の劣等感が作中では多くみられる。
 ちなみにタイトルである『レディ・バード』とは彼女が自分自身につけた名前であり、そこからも彼女が「名前」という、生まれてすぐ勝手に他人(親)に押し付けられたものから逃れて自分を確立しようとする姿を感じるところだ。
 
 
 そんな彼女は、同世代との間では友好的だが、大人に対してはどこか斜に構えているのが特徴だ。
 これもまた、きっと誰にでもあった「大人」への疑いを持って反対に行こうとする時期の姿なのだと思う。
 
 そんな彼女と最も近くにいて、そして最もぶつかり合ったのは、他ならぬ母親のマリオンだった。
 マリオンは必死に家計を支える身であるのもあってか、レディ・バードに負けず我が強く、お互いの気持ちと考えはいつもすれ違ってばかりだ。
 
 しかし、2人は決して仲が悪いというわけではない。
 いつも喧嘩してばかりなのに、レディ・バードが悲しんでいる時はそれを受け止めようとするマリオンの姿は、とても大らかで母性的に見える。
 と思うのもつかの間、すぐに喧嘩したりするのだが、こうしたジェットコースターのような感じも旅立ち・巣立ちを控えた時期を丁寧に描いているなぁと観ていてじーんときてしまった。
 
 
 
 以上のように、映画はレディ・バードの巣立ちに焦点を当てて描かれているものの、その母親であるマリオンとの関係性は非常に大きく、マリオンは裏の主人公のように解釈できる気がする。
 つまり、この作品を「子」として見るならば大人に反発して自分を確立しようとするレディ・バードに共感し、「親」として見るならば愛情がありながらも子どもに上手く接することのできないマリオンに共感するという、そんな二重構造を感じる作品だ。
 
 『レディ・バード』の評価はとても高いと聞いていたので、自分の中のハードルも高くなってしまっていたのだが、観てみると「こういうものならなるほど確かにな」と納得させられる映画でした。

競技の世界にある不思議な関係性/『ラッシュ/プライドと友情』感想

 
 この映画はまさにタイトルにある「プライドと友情」がピッタリくるストーリーだ。
 レース好きの友人に勧められて観たのだが、柄にもなくその熱さにレースのファンになってしまいそうだった。
 
 2人の主人公、ジェームス・ハントニキ・ラウダはまさに水と油といった対照的な2人で、感覚的な走りを持ち味として思うがままに走るジェームスにある日現れたライバルこそが、論理的思考で走るニキ・ラウダだった。
 私生活も対照的で、女遊びをするし酒も食事も豪快なジェームスに対して、ニキ・ラウダはとてもこじんまりとしている。
 こんなにも対照的な2人がいるのかといったぐらい、2人は正反対だった。
 
 
 そんなわけなので、当然ジェームスはニキ・ラウダのことが好きになるはずもなく、むしろ自分よりも良い成績を出していくニキ・ラウダに対して強い対抗心を抱いていた。
 口でもしょっちゅう突っかかっていくぐらいだ。
 実話ベースなので史実をご存知の方にはおわかりだが、お互いに足を引っ張り合うシーンなんてもう見ていて苦笑いするしかない。
 
 
 しかし面白いことに、2人の不思議な関係性を象徴するシーンが後半に隠されている。
 ニキ・ラウダを酷評する記者に対し、本来であれば喜びそうなジェームスは鬼のような形相で怒るのだ。
 彼はニキ・ラウダを口では悪く言っているものの、本心では彼の実力を誰よりも評価していた。
 そこに不思議な友情関係があったのだ。
 
 ジェームスとニキ・ラウダはお互いを良くは思っていないだろうが、しかし同時に、同じレース場を走る戦友として、ある種の信頼関係にあったのだろうと感じた。
 「お前なら追いついてくるだろう」「お前ならそのぐらいやれるだろう」といった感じに。
 これはレースのような命を燃やす世界でなければ、なかなか見れないかもしれない。
 何より作中でも描かれるが、当時は選手を取り巻く環境が今よりは非常に劣悪であろう様子であり、ハンドルミスがなかったとしても生きて帰れるか怪しい世界だ。
 そんな中で、お互い生きて大地に立ち、しかも順位争いをし続ける2人がいるならば、そこに友情が芽生えないはずがないのかもしれない。
 
 ロン・ハワード監督の作品は『ビューティフル・マインド』ぐらいしか観ていないので(『アポロ13』も観たと思うのだが記憶にない)、その印象からするとこの作品はとても意外だったのだが、史実を大事にしつつもそこにいた人間を丁寧に描いているという意味ではどちらも同じように思う。
 監督の他の作品を観てみたくなるぐらい、魅力的な作品だった。

時間は取り戻せる/『天使のくれた時間』感想

 
 『天使のくれた時間』は昔見たことある映画であり、その時はタイトルが印象的なだけだった。
 最近また一度だけ見たのだが、人生というものを積み重ねてきたことで、どこか味わい深い作品だなと感じるようになった。
 
 原題は「The Familiy Man」で、その名の通り、「家庭的な男」を主軸に話は展開される。
 主人公ジャックはそれとは程遠く、ウォール街で成功した社長であり、女性とはよく遊ぶが妻子はいない男だ。
 そんな彼にも人生の分岐と言える瞬間があって、それは金融会社の研修に向かう直前での、当時付き合っていた彼女とのやり取りだった。
 彼はそんなこと気にも留めずに生きてきたのだが、ある日、ふと出会った黒人の不思議な力によって、その時別の選択肢を取っていた「もしも」の世界に飛ばされる。
 それは、彼が金融会社の研修を蹴り、彼女と生きることを決めた世界だった。
 
 誰もが一度は思うであろう、「もしも、あの時ああしていたら?」という考え。
 この映画で取り扱われている家族要素も、ジャックの背景も、何もかもありきたりと言えばありきたりだが、しかし、ただそれだけを丁寧に描いた作品でもあると思う。
 
 観た人にならわかるが、この作品は『ラ・ラ・ランド』とは対照的といえるだろう。
 『ラ・ラ・ランド』は、取り戻せない時間の愛しさと共にいられない悲しさを前にして、一時の「もしもの世界」を終えて自分の人生に戻る物語だった。
 お互いがお互いの人生に強く刻み込まれているという事実だけを確かめて。
 
 一方で、『天使のくれた時間』での時間は「取り戻せるもの」として描かれる。
 そして同時に、家族の絆以外に確かなものは何もなく、自分の夢ですらも「確かなあなた」よりは大事ではない、というのが登場人物の言葉でかなり明確に語られている。
 夢に生きた二人のすれ違いを描いた『ラ・ラ・ランド』とはそういった意味でも対照的だ。
 
 どちらが現実的かといわれれば、やはり『ラ・ラ・ランド』のような物語の方が現実的だと思う。
 しかし、『天使がくれた時間』のような「きらめき」も、人生には必要だろう。
 今すぐ走り出せば、取り戻せる時間は誰の人生にもあるかもしれない。

超越者の孤独/『トランセンデンス』感想

 
 『トランセンデンス』は、クリストファー・ノーランが関わってる映画としては実に「らしい」映画の一つだと思う。
 ちなみに、トランセンデンスは「超越」という意味で使われている。
 この物語の軸となっているのは、表面的には科学技術の超越的進化に伴うリスクを描いているように見えるが、その本質は「物事の複雑さと単純さ」にあると考えている。
 
 
 まず最初に、SF作家であるアーサー・C・クラークが残した有名な言葉を紹介したい。
 
「十分に発達した科学技術は、魔法と見分けがつかない。」
 
 私はこれは真に迫った言葉だと感じている。というのも、私たちの知性は高度化した技術に対応しきれていないと感じるからだ。
 テレビではよく専門家として科学者が登場し、物事に論理的な説明をつけてくれる。それを見聞きしてスッキリする人も多いだろう。
 しかし、はたして専門家の言うことをどれだけ本当の意味で理解できているだろうか?
 高度な内容を、なんとなく「あの人が言うならばそうなんだろう」と受け取ってしまっていないだろうか?
 もしそうであるならば、実はそれは魔法使いが現れて、全てを魔法で説明するのと何ら変わらないかもしれない。
 科学と魔法が置き換わっただけではないだろうか。
 
 
 『トランセンデンス』で描かれているのは、要はそういうことなのだろうと思う。
 「超越した科学技術は、魔法と見分けがつかない」ゆえに、人々を恐怖させてしまう。
 我々の生活において、科学は私たちを安心させるものとして定着しているだろう。
 しかし、超越し複雑化した科学技術は、あまりにも私たちにとって遠い存在であり、そこに「敵意」を疑ってしまう。
 これまで数多く描かれた地球人と宇宙人の対決のように、一般人と超越した科学者の間には決定的な違いがあるのだ。
 このあたりは、『her/世界でひとつの彼女』にも通じるところがある。
 
 しかし、私が冒頭で「複雑さと単純さ」と述べたように、超越した科学者――ウィルの思考は、実は至ってシンプルなものだった。
 むしろ彼からすれば、どれだけ話しても何故それが理解されないのかがわからなかっただろう。
 物事は突き詰めるとシンプルになる。
 彼の人間性を信じるか、信じないか。
 様々な論理を並べても、結局はそれだけのことだったのだと思う。
 
 
 私たちは多くの卓越した科学者による進歩を讃える一方で、心のどこかで自分が1ミリも理解できない「超越」を恐れ、実は停滞を望んでいるように思う。
 しかし私たちがどれだけ望んだところで、世界は変質していく。圧倒的に。
 10年前20年前の自分にインターネットの存在を教えたところで全く理解されないだろうのと同じように。
 
 有名な科学哲学者トーマス・クーンはそうした「既存の考え方そのものの変化」をパラダイムシフトと定義したと理解しているが、この考え方は今なお色あせていないと思っている。
 私たちはいつだって、かつてあったパラダイムシフトと、次なるパラダイムシフトのあいだでもがいているにすぎない。
 「超越」が起きた時に、自分がどれだけ上手くあるいは正しく動くことができるか。
 考えなければいけないように思っている。

タブーに生きる人たちにとって、それはタブーではない/『最強のふたり』感想

 
 『最強のふたり』を観たのは、随分前のことだったが、今なお記憶に新しい映画の一つだ。
 原題はIntouchablesだそうだが、その名の通り、「触れられぬもの」に触れた作品という印象がある。
 
 物語は、主に大富豪フィリップとそれを介護するドリスを中心に展開される。
 ドリスは悪く言えば紳士的な人物ではなく、良く言えば裏表がない。彼はフィリップに対し、遠慮することなく好き勝手に物を言う。
 フィリップもまた、そんなドリスの行動をどこか心地よく感じている様子も描かれる。
 
 劇中でも描かれるが、フィリップは頸椎を損傷しており、首から下が動かないため、そんなフィリップに対して失礼なことを言うことは普通の介護士であるならばあってはならないことだ。
 しかし、ドリスは普通の介護士ではなかったため、そのようなことを平気で言う。
 これは、タブーに生きる人たちを如実に描いているように思う。
 
 私たちは思いやりや規範意識を持っているが、それは時としてタブーを生み出す。
 「触れてはならぬもの」「口に出してはいけないもの」である。
 しかし、そのタブーの中に生きる人にとってはどうか?
 
 フィリップを介護する人は、タブーを恐れるがあまり、フィリップの心に踏み込んで話すことができない。
 それは確かに、下手なことを言わなければトラブルが起きないため、プロの仕事として見るならば必須かもしれない。
 しかし、それ故にフィリップは孤独に飲まれていったのではないか。
 誰もが彼に対して一線を引くがゆえに、だ。
 
 私たちはそうした姿勢を「良いもの」として捉えているし、それに反する行動を取った人物に対して、どこか非寛容なところがある。
 しかし大事なのは、ドリスはフィリップに対して遠慮なく接してはいるが、フィリップを馬鹿にした行動はとっていないということだ。
 タブーを生きる人にとって、そのタブーは当然自分について回るものであり、特別なことではないだろう。
 そんな人々に対して、それを特別なもののように扱うことは、時として失礼にもなるように思う。
 簡単な言葉にしてしまうとケースバイケースだが、しかし常に考えていかなければいけない内容に思う。
 
 
 なお、フィリップとドリスはまるで対照的な人生を歩んでいるため、そうした「触れ合わなかったであろう2人」が触れ合った、という意味でも実にIntouchablesな映画だとも思う。
 また、劇中では某ひげのおじさんが笑いのネタにもなるが、これもまたIntouchableなネタだろう。
 そうした意味で、あらゆる面からIntouchableに触れる、ギリギリのところで成立した人間関係を描いているように思う。

繰り返される物悲しさの中で、それでも少しずつ前に進んでいく/『ムーンライト』感想

 
 『ムーンライト』は、どこか情緒的で詩的な映画であり、何か明確なメッセージを提示されるようなものではないように思う。
 ただ個人的に読み取る点があるならば、限られた環境の中で生き続けようとした主人公シャロンの姿そのものだ。
 
 
 シャロンは、あまり選択肢の多い人生だったとは言えないだろう。
 精神的に不安定な状態の母親、学校での苦しみの中で、彼にとって心休まるところはなかった。
 子どもにとって、世界というものは基本的に家と学校の2つだけのように思う。
 そのどちらもが崩壊していたシャロンにとっては、社会の裏側で生きるフアンとの出会いは自分の居場所を得たものだっただろう。
 
 
 しかし、結局シャロンは「レール」から抜け出せなかった。
 かつてのフアンと同じように、生きるために社会の裏側で生きるしかなかったのだ。
 格差の再生産のような、物悲しい光景だ。
 
 シャロンに少しでも救いがあるとするならば、それは母親のことだ。
 フアンは母親と仲違いをしたままそれっきり会えなくなってしまって、「今は会いたいと思うよ」というように悲しそうに言っていた。
 しかし、シャロンはリハビリセンターにいる母親に会うことができる。
 
 社会の裏側で生きるシャロンに母親が説教するシーンは印象的だ。
 シャロンは「お前が言うのか」とはじめは思っただろう。
 しかし、シャロンは涙する。
 自分自身のことばかり考えて子どもに金をせびるような母親が、自分のために言ってくれた言葉だったから。
 フアンよりも、少し進むことができた。
 
 
 この世界では日々、こんな風に「同じような人生」が繰り返されていく。
 その中で少しずつ、本当に少しずつ、人々の人生は改善していくのだろう。
 シャロンは母親と、そして友人と和解することができた。
 どうしようもなく進んできた彼の人生も、少し報われることができたように思う。